『95』ヨーロッパ経済共同体(EEC)の誕生
- nakata513
- 2022年4月5日
- 読了時間: 5分

欧州経済共同体(European Economic Community、略称:EEC)は、1957年に設立された、ベルギー、フランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルク、オランダとの間での経済統合を実現することを目的とする国際機関。「ヨーロッパ経済共同体」と表記することもある[注 1]。
上記6か国のほかにその後別の6か国が加わり、また1967年には機関が欧州石炭鉄鋼共同体(英略称:ECSC)と欧州原子力共同体(英略称:Euratom)とのあいだで統合され、欧州諸共同体(英略称:EC)と呼ばれる体制に移行した。1993年に欧州連合(英略称:EU)が発足した際、欧州経済共同体は欧州連合の3本柱構造における第1の柱である欧州共同体とされたが、2009年のリスボン条約の発効によって廃止された。他方で欧州経済共同体の機関は欧州連合に継承されている。
ソ連が月面に到着した1959年、キューバ革命が起こります。実は革命が終わった後、キューバの独裁者カストロはアメリカに行っています。「親アメリカの軍事政権を革命で倒したけれど、アメリカとけんかするつもりはありません。助けてください」というわけです。
ところがアメリカは、当時は反共意識が強くて非常に狭量で、しかも世界でぶっちぎった経済力、軍事力を持っていましたから、ぺこぺこしないやつはみんな嫌いです。仲良くやりたいというカストロに対して禁輸措置を取るわけですから、これは「おまえはソ連の方に行け」というような話になります。
1958年には、アルジェリアのフランス軍が反乱します。最大の植民地であったアルジェリアを押さえることができなくて第4共和政が破綻するのですが、ドゴールが全権を持つ形で登板して第5共和政という強い権限をもつ大統領を持った体制をつくりました。これについてフランス人に聞くと「フランスの伝統を足して2で割ったものだ」といいます。
フランスの伝統には、王政とフランス革命による共和政という2つの流れがあります。第5共和政というのはこの2つを足したもので、共和政でありながら、強大な権限を持つ王様のような大統領をつくったという意味です。これでフランスは強くなります。
そういえば、フランスの大統領は王様に似ていますよね。昔からそうですが王様がやることは何かといえば、例えばローマ皇帝が凱旋門をつくったり、ナポレオンも凱旋門をつくったりしています。フランスの大統領も新しい凱旋門をつくったり、ポンピドーセンターをつくったり、ルーブルのピラミッドをつくったりと、記念碑や歴史に残る建物をつくっています。第5共和政というのはフランスの特色をよく示しているのかもしれません。
1959年、キャンプデービッド会談が行われ、米ソはフルシチョフとアイゼンハワーが平和共存で「仲良くやっていこう」と話し合いますが、これがさらに中ソ対立を激化させます。
1960年は「アフリカの年」といわれていて、たくさんの国が独立しました。
フルシチョフはこの時期、無人探査機の月面到着が成功した後で絶好調。宇宙、軍事技術でアメリカに追いついたので鼻息が荒いわけです。それでアメリカからモスクワへの帰り、北京に寄って会談をしたのですが、そのときに「俺たちは数年後にアメリカを追い抜いたるで」と、ほらを吹いたのです。
それを聞いた毛沢東は激怒します。当時のGDP世界第2位はまだUKでしたから「ソ連がアメリカを抜くんだったら、俺たちはUKを抜いてやろう」といって何の根拠もなく、ここから「大躍進」という誤った政策を展開するわけです。簡単にいうと、鉄をたくさんつくって、UKを追い抜くというものです。
それで鉄をつくることが全ての目的になってしまうのです。鉄であれば何でもいいということで、田舎でも木を切り倒して、出来の悪いスラブの固まりのような鉄をつくるわけです。
しかし、よく考えてみると、こういうことを中国がやってくれたので日本は工業国としてどんどん成長できたわけですね。もし毛沢東が早く死んで、鄧小平の時代になっていたら、工業化をがんがん押し進めたことでしょう。その結果、中国はもっと早く日本のライバルになっていたかもしれません。毛沢東という詩人気質の永久革命家が長く権力を持っていたことが、日本の幸運だった気がします。
1961年、アメリカはキューバと断交します。ロシアのガガーリンがボストーク1号で宇宙へ行ったことに対抗して、ケネディはアポロ計画を作ります。
一方のフルシチョフは自信満々であるにもかかわらず、なかなか経済ではアメリカに追いつけません。東ヨーロッパの復興は進まず、ベルリンでは東ベルリンから西ベルリンに人がどんどん逃げ出していました。そこで「ベルリンの壁」をつくるわけです。
冷戦といえば、今日では「米中冷戦」といわれていますが、米ソの冷戦とは大きな違いがあります。米ソの冷戦は、このベルリンの壁に象徴されるように人間の交流がありませんでした。スターリンもフルシチョフもブレジネフも、自分たちは西側に行って西側の豊かさを知っていたので「人々を海外に出したら帰ってきやへんで」と考え、人々の交流を禁じていたのです。だから、米ソの冷戦の特徴は鎖国にあります。
そこが今の米中冷戦との大きい違いです。中国とアメリカの人材交流はすさまじいですよね。例えば、中国からアメリカには約37万人が留学しています。アメリカにいる約100万人の留学生のうち、4割ほどが中国人です。日本からアメリカへの留学生の数は2万人を切りました。人の交流が絶対に途切れないところが、米中冷戦の米ソ冷戦との大きな違いです。



コメント