『99』中国を劇的な発展を導いた鄧小平
- nakata513
- 2022年4月5日
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日本は、ニクソン訪中の後、田中角栄首相が訪中、日中共同声明を出して国交を回復します。1973年、文化大革命によって失脚していた鄧小平が復活し、ここから中国の発展が始まります。この年、第4次中東戦争が起き、産油国はオイルを武器にしてオイルショックを起こしました。このオイルショックがソ連の崩壊につながります。
西側は「値段が上がったのでしょうがない」と必死に省エネに頑張ります。ソ連は「いいチャンスじゃないか。市場経済は石油の値段が瞬時に4~5倍になる、計画経済が優れているところを見せてやろう」ということで、東ヨーロッパに対して原油やガスの値段を上げずに供給します。でも、値段を据え置いたら省エネ技術などを誰も考えません。西側は値段が5倍になったから、初めて省エネを必死で考えるようになったのです。そこでイノベーションが起こるのです。実はこのオイルショックが、ソ連の衰退の最終的な引き金になりました。西側との技術的な格差がさらに広がったのです。
ヨーロッパの懐の深い話を1つしておこうと思います。
スペインでは親ナチスのフランコ将軍の独裁政権が1975年まで続いていました。フランコは、フアン・カルロスというブルボン家の王子を父親から引き離して、自ら帝王教育を授けて養育していました。フランコの死後をこの王子が継いだわけですから、スペインは引き続き全体主義体制が続くのではないかと誰もが思いました。でも、フアン・カルロス国王は自由化路線を取り、フランコ派のクーデターを自ら先頭に立って潰します。
考えてみたら、フランコ自身はひどい人だったかもしれません。でも、自分の代でこんな独裁体制は持たないということが分かっていて、ひょっとしたら次の時代を担うフアン・カルロスにはリベラルな政策を打ち出せるような教育を施していたのかもしれません。もちろん、フアン・カルロス本人の資質かもしれませんが、ヨーロッパはなかなか懐が深く面白いところがあります。
中国に話を戻します。1976年に毛沢東が死んで、ここで鄧小平が完全に復活します。鄧小平の考え方はものすごくシンプルで、格差をそのまま認めたのです。どういうことかというと、深圳や広州、上海などの沿海地域は経済が発達し始めていましたから、そこに特区をつくって、どれだけお金もうけをしてもいいと決めました。「白猫でも黒猫でもいい。ネズミを捕ればいいんだ」という言葉は有名ですよね。
もともと中国人は優秀ですし、資源も豊富ですから、がんがん発展し始めます。中国は格差が大きくて、当時、豊かな州と貧しい州とでは平均所得の差が20倍以上もありました。それでも深圳や広州、上海に「いくらお金もうけしてもいい」と指示すれば格差はさらに広がります。
でも鄧小平は、先頭集団がさらにスピードを上げれば、置いていかれると思った人々も頑張ると考えました。出るくいはがんがん伸ばしたら、その出るくいを見てみんなが頑張るというのが鄧小平の考え方です。これは、日本の「出るくいはともかくたたいてみんなで一緒に進んでいこう」という考えの対極ですよね。この考え方によって中国は高度成長を始めます。



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